ひまわり会では日系社会の歴史を研究するイベントを定期・不定期に開催している。 この歴史セミナーは毎年10月に定期で行われ、三回目となる今年は「イーストベイ日系社会の歴史」と題し、エル・セリートとリッチモンド市で発展した日系人のフラワービジネスに焦点をあてた研究発表が行われた。

はじめに~

2018年12月、エルセリート市サンパブロ通り沿いに「ハナ・ガーデン」と名付けられたシニアアパートメントが完成した。 その名は、かつてこの場所に日系人Mabuchi さんが経営していた花卉(かき)農園 Contra Costa Florist があったことに由来している。 その隣には花の小売店であった建物も保存されており、これは特徴のある形なので記憶されている方も多いと思う。 実はエルセリートとリッチモンド市周辺はサンフランシスコベイエリアのフラワービジネスを支えた一大生産地であり、そしてその産業を牽引、発展させたのは日系移民であった。 今回のセミナーではその歴史研究の発表、ならびにドキュメンタリー映画「BLOSSOMS & THORNS, A Community Uprooted」を観賞し、そのあとで意見交換を行った。

日系社会の歴史概観~

セミナーはUCバークレー講師で、このニュースレターにも毎回ご寄稿をいただいている山中啓子先生による「日系アメリカ人の歴史、1910-1980:移民の家族と自営業」から始まった。 日系移民が始まったのは1880年代で、最初は働き盛りの出稼ぎ男性がアメリカ西海岸にやってきた。 彼らは差別や言語のハンディキャップを抱えながらも奮闘するが、アメリカ政府、地域のヨーロッパ系移民による日系人排斥運動がおこり、やがて1908年のいわゆる「紳士協定 (Gentleman’s Agreement)」で、日系移民を大幅に制限する法律が制定された。 山中先生はこの法成立が「移民形態の転換期」であると指摘する。 この法律により「単身者」の移民が禁じられ、世に知られる「写真花嫁」として日本から若い女性が日系人男性の「妻」としてアメリカに入国した。 その結果これまで賃金労働者として仕事のある場所を移動しながら生活していた男性たちが土地に定着するようになり、家族を形成することで「日系コミュニティ」に発展する基礎となったからである。 これは他のアジア系移民の歴史と比較しても際立っており、日系移民の歴史を考える上で重要なファクターである。 その後1924年にはアジアからの移民は完全に禁止されたが、日系人家族たちは互いに協力し合い、それぞれの地域で特色ある日系コミュニティを形成していった。  しかしながら日系コミュニティが結束を強めて繁栄し、経済的にも発展をすることが他のコミュニティに新たな差別感情を引き起させたことも指摘された。

カットフラワービジネス(花卉産業)の始まり~発展

1885年、和歌山出身の堂本兄弟が農園をオークランドで開業し、後に続くフラワービジネスの基礎となった。 彼らは自らの農園を経営する一方で新参の日系人にその技術を伝えたので「堂本カレッジ」とも呼ばれている。 そして1902年、現在のエルセリート市、I-80とポトレロ通りの交差する場所でMr. Yataro Nabetaがこの地域で最初の花卉農園を開業した。 この地域は当時土地が安価で気候、交通の便がよかったこともあり、多くの日系人がそれに続くことになる。 ちなみにリッチモンドは1905年、エルセリートは1917年に「市」として組織されいる。 この地域の発展に日系人が大きく寄与していたことは想像に難くない。 そして1929年には日系農園が北カリフォルニアの主要グリーンハウスで栽培される花、及び菊科の70%を生産するまでに成長していた。 当時の記録によればエルセリート、リッチモンド地域にあった27軒の花卉農園のうち、23軒は日系人経営であった。 ところがこの業界でも流通経路などで日系人に対する差別的な商習慣があったので、それに対抗するため一部イタリア系同業者などと協力し、花の卸売市場 San Francisco Flower Marketを設立した。 ここでは小さな小売り店が少量でも買えるなど、きめ細かなサービスが好評で、サンフランシスコベイエリアにおける花の流通拠点として栄えた。

日米開戦~強制収容~帰還~復興とその後

そのように発展した日系人による花卉産業であったが1941年12月に日米開戦、その後まもなく全ての日系人が強制収容されたことにより、ほとんどの農園は放置、破壊、接収などのため荒廃した。 それでも収容所から帰還した日系人は不屈の精神でその花卉産業の再興を目指し、1960年には日系人が主な生産者であったカーネーション、薔薇、菊科の花の生産においてカリフォルニアが全米トッ

プにランクされるまでに復興させたのである。 しかしながら時代の流れはこの産業に好意的ではなかった。 車社会の到来でリッチモンドのフォード(自動車)アッセンブルラインで働く労働者用住宅需要が増加、産業構造の変化による人口増加と土地の価格上昇が起こる。 世代交代期には事業継承者が不足し、次第に事業規模の縮小を余儀なくされた。 さらにはアメリカの対南米経済政策によっ

て花卉産業の生産拠点が南米に移ってしまったため、商品価格が下落しもはや産業として発展することが難しい状況になってしまう。 2006年にはこの地域で最後の日系農園が廃業し、エルセリート・リッチモンド地域の花卉産業は終焉を迎える。

終わりに~

今回の研究を通じて、エルセリート・リッチモンド市に多くの日系人の方がおられること、そしてJ-Seiをはじめ、日系キリスト教会、仏教会など多くのコミュニティで日系人が活躍されている理由がおぼろげながら理解できた。 そしてその功績を次世代に語り継ぐようにハナ・ガーデンの入り口にはその歴史を刻んだパネルが設置されている。 機会があったらぜひお訪ね頂きたい。