明治維新直後の1869年に、会津藩軍事顧問だったヘンリー・スネール氏に引き入られて数人の会津藩士らが北カリフォルニアのプラサビルに入植した。 数年後、移民団は農業開拓に失敗し離散するが、スネール家の子守として連れてこられた伊東おけいは近くのアメリカ人の家に引き取られる。 不運にも彼女は数年後、熱病にかかり、19歳の短い生涯を終えるが、彼女の死を悼み建てられた墓は今もプラサビルの丘の上に立っている。 

私が最初におけいさんのお墓を訪ねたのは40年前のこと。 牧草地の鉄さくの下をくぐり、道なき道をかきわけて登った丘の上に、その小さなお墓はあった。 若松コロニーとも若松ファームとも呼ばれる220エーカーに及ぶこの地は、アメリカで最初の日本人による入植地としても知られる。 2010年にはアメリカンリバー自然保護協会がこのあたり一帯の土地を購入し、それ以降、自然や歴史の環境保護活動を行っている。 今では牧草地は整備され、見晴らしのいい自然公園になっていて、おけいさんの墓の周りには樫の木が枝をひろげ涼しげな蔭をつくっている。

今年はその若松コロニーの150周年にあたるため、記念の祝賀フェスティバルが6月6日から9日まで盛大に行われ、日本人僧侶の読経による追悼式や、様々な日本文化の紹介、若松コロニー・ストーリーを描いた演劇、音楽演奏、講演会など多彩な催しが繰り広げられた。 また、若松コロニーの保存に尽くした日米各界の関係者や会津若松や姉妹都市蕨市の代表団に混じって、徳川家や松平家やコロニー移植者の子孫たちの特別参加もあり、雰囲気は大いに盛り上がった。 約4000人といわれる入場者の中には、日本/日系人に混じって、地元の人たちの姿がたくさん見受けられた。 近くの小学校では福島の子供たちとの交流も盛んなようだ。

プラサビルはベイエリアから北東へ車で二時間ほど行った所にある。 一見、日本/日系人とほとんど縁がないように見える、この人里離れたアメリカの農村で、150年前に入植した日本人移民の歴史が尊重され、大事に守られているということに感動を覚えた。  またその陰に、会津若松の人たちの熱い支援があったということにも。 たくさんの人たちに見守られて、おけいさんもきっと喜んでいるにちがいない。