「懐かしい遠い昔のこと(上)」 ドンゴン巳器乃

私は東京市麹町区三年町に大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まった年の三月に生まれ、その後静岡県の磐田村に疎開しました。父は自営業の印刷の会社を辞め(紙が配給制になり、営業困難になったため)、戦争は次第に激しくなり、

B29が私の家のスレスレに飛んで、母があまり低く飛んでいるのを見て、日本の戦闘機と間違え、後にアメリカの戦闘機と知って腰を抜かしたこともありました。それから数日後、浜松の大空襲があり、浜松の空が真っ赤に染まっているのを、私は兵隊さんの山の中の防空壕に避難する祖母の背から見ていました。その防空壕には大砲とか機関銃などがあり、其処で一晩泊まり、翌日家に帰りました。

戦争も終わり、磐田村小学校の一年生に入学、初めは「東京っ子、東京っ子」と着る物、言葉使いが少し違う私は仲間外れにされました。そして、もう一人「東京っ子」がいて、その子も仲間外れにされていました。校庭はとても広く、その周りは桜の木が植えられていました。国語の教科書の最初のぺージは「みんな、みんな、みんないい子」と書かれていました。この教科書を使った方いらっしゃいますか。

一学期が終わり、夏休みに入り、東京に帰ることになりました。物心ついてから初めて汽車に乗るわけです。まだその頃は汽車の本数は少なく、汽車に乗ることも大変でした。私のいた磐田村は磐田駅から5マイル入ったところだったので、朝暗いうちに家をリヤカー(バスがまだ走っていませんでした。)に乗って磐田駅へ向かいました。そして満員の汽車に、どういう訳か母も、妹も私も全員座れたのを覚えています。夏でしたので、汽車の中は窓を開けていてもとても暑く、前に座っていたお兄さんが私と妹にブドウをくれて、戦争で物の無い時、田舎の田舎で育った為、ブドウなど見たことがなかった妹が「おかあちゃま、これなあに?」母が「ブドウよ。」と答えると「ブドウ?」と聞き返していたことも懐かしい思い出です。

いよいよ東京駅に着きましたが、そのホームには屋根がありませんでした。八重洲口の方に出ると、昭和通まで焼け野原でした。都電の停留所で待っている人は皆しゃがんで待っていました。食料不足と栄養失調で立って電車を待つことが出来なかったのです。

そのうちにアッという間に家が建ち、銀座通りは京橋のたもとから新橋まで露店が並びました。露店には何でもありました。松屋デパートや服部時計店(和光銀座4丁目)はPXになり、その和光の前で沢山のアメリカの兵隊さんが、何か真っ白い物が入った大きな袋を抱えて、口をモグモグ。長いことそれがポップコーンという物だとは知りませんでした。

(次号に続く)