年末年始に、静岡県西部にある父と母が生まれた家をそれぞれ訪ねた。どちらの家でも、伯父・叔父や伯母・叔母は 90歳を超えている。久しぶりにゆっくりと会って、家族の古い話を聞いた。今まで知らなかったこともあった。
(逸話1)
敏子叔母は、母ふじが生まれた農家を継いだ叔父弥一の妻である。昭和25年に嫁いだ。当時は祖父と祖母も生きていた。祖父義一は、当時では珍しい中学校卒で、誇り高い明治の男であった。先祖代々の百姓を継ぎ、自給自足に近い山あいの村で一生を過ごした。私も、子供の頃そこを訪ねて祖父に会うと、背が高く凛とした祖父に畏怖を感じた。祖母こまは、私が小さい時に亡くなったから、私は何も覚えていない。でも、後に叔父から、この祖母も女学校卒だと聞いた。そして母からは、祖母が喘息を患っていたのを聞いた。敏子叔母は、このおばあちゃんの最後の時期を語った。「かわいそうに、ぜいぜいと咳をして、こんきこんき(つらいつらい)と言っていて泣いていた。そしたらおじいちゃんが、子供みたいにそんなに泣くなと言って、えらい怒ったよ。本当にかわいそうだったよ」。「あんなに小さい身体で、子供を8人も産んで、たいしたもんだ。それで、上の2人は子供の頃に死んで、三男で家を継ぐはずの武郎さんは、戦争で外地で死んだ。私の従兄弟も死んだ。あんな若い、いい体格の男衆が、はたちくらいで戦争に行ってどんどん死んでいった。ひどい死に方だった。戦争は良くないよ」。
(逸話2)
もうひとりの伯母りくは、今年99歳。もうあと9ヶ月で100歳になる。父の兄英一の妻である。家業のクリーニング屋を、夫と長男と一緒に支えてきた。私を見ると「ああ啓子ちゃん、本当によく来てくれたね、もう頭がパーと真っ白になっちゃってね、何にも覚えていないよ」と笑う。この伯母が話し出した。「昔、浜松の鴨江に住んでいた時、遊郭があった。家のすぐ前、通りを隔てた向こう側にあっただよ。戦前の話。5、6軒一緒に街の一角に固まっていた。毎日、お女郎さんが綺麗な着物を着て、通りを練り歩いたもんだ。本当だよ。いつもたくさんの男達が出入りしていた。中には、私の舞阪の同級生も娼妓と腕を組んで歩いていてね、私は恥ずかしくなって、家の中に駆け込んだよ。漁師の衆だから漁で稼いだお金をあそこで落としていた」。「娼妓は可哀想だったよ。皆んな売られて来てたんだから。話をすると、あんた達はいい、うらやましいと言っていたね。でも、娼妓でも悪い女ばかりじゃなくて、いい子もいた。お客さんと一緒になって出て行った娼妓もいる」。「遊郭はちゃんと消毒されていて、銭湯も清潔できれいだった。ああいうのは隠しちゃ駄目。ちゃんと管理されていたからよかった。今はどうなっているのかね、隠れたところでやっていたら危ないよ」。「あの辺りでは、遊郭があったお陰で、皆んな商売ができたんだよ。娼妓が着物を洗濯に店に持って来てね。私の主人も遊郭に行って商売を貰ってきた。銭湯は清潔だからって、あの人は娼妓と一緒にお風呂に入ってねー。本当だよ。でも私らの子供も4人いて、みんな病気もせずちゃんと育ったから、大丈夫だったんだねー」。「その遊郭も街も全部空襲で焼けて、私達も焼け出されて今の所に移って、商売を続けたんだよ」。