ここしばらく日系人について考えることが多い。それは、日本の東海地方で日系フィリピン人が増えているという事実を、研究対象とすることから始まった。しかし、その歴史をひも解くと、それが日本の近代史と深くつながっていることがわかる。日系人という定義を広く「海外に移住・定住した日本人とその子孫」とすると、明治初期から世界中に勇躍した日本人ディアスポラの歴史は150年になる。戦後生まれの日本人はその歴史と背後にある日本近代史について、殆ど知らないのではないだろうか。

これは偶然だけれども、10月末にひまわり会の行事で、日系アメリカ人の130年の歴史を女性と世代の視点から話す機会があった。このテーマは、UCバークレー校のアジア系アメリカ人の授業で教えているのである程度なじみがある。一般的に移民史は男性中心で語られるので、女性、世代、そして家族という視点が欠けている。日本人の場合は、女性の移住が禁止された中国人と異なり、1908年から1921年まで写真花嫁の到来が許されたので、次の世代を育てることができた。しかし、一家全員で農業や商業に従事し生計が安定したのもつかぬ間、1941年の太平洋戦争の勃発により、日本人移民はアメリカ市民の子供たちも含めて、約12万人が強制収容所に入れられた。

同じ頃、南アメリカに移住した日本人がいる。日米の紳士条約が新たな移民を禁止した1908年に、ブラジルが日本人移民を受け入れ、笠戸丸が781人を乗せて南部のサントス港に着いた。それ以降日本人移民は受難が多かったものの、1930年代には自営農業者が増え日本人村も各地に作られた。日本人は家族単位で入国したので、女性も多く、従って次世代も順調に育った。日本人村では日本語や日本の教育が取り入れられて、日本文化が踏襲された。しかし、ブラジル国家主義者のバルガスが大統領になると、外国語での教育は禁止され、第二次大戦で枢軸側の敵国民とみなされた日本人移民は、ブラジル国内で孤立した。僻地に住み情報も少なかった日本人社会では、狂信的な国粋主義者が日本の敗北を認めず、破壊殺傷行為を繰り返すテロが戦後まで続いた。

転じてアジアに目を向けると、1903年にフィリピンのルソン島で道路工事のために、2,800人の日本人男性が出稼ぎした。工事終了後、その一部が南部のミンダナオ島に移り、当時マニラ麻の栽培をしていた日本人経営の農園で働いた。1930年代には、呼び寄せ妻たちも多く着いて、ダバオを中心に、日本人3万人が、農業、商業、漁業に従事し、活気のある日本人社会を構成した。その中には、先住民の女性を妻とし、メスティゾと呼ばれた混血の二世を育てた日本人男性もいた。子供たちは日本人学校で大和魂を教え込まれた。アメリカの植民地であったフィリピンは、急速に南進する日本に警戒心を高め、国内に点在する日本人移民社会を抑制したので、日本人との対立が深まった。太平洋戦争勃発とともにフィリピンを占領した日本軍は、日本人と二世に戦争協力を強制した。移民たちも日本人の義務として協力を惜しまなかった。日本人学校で教育されたメスティゾ二世たちも通訳として動員された。敗戦と共に日本人は全員日本へ強制送還されたが、現地人妻とメスティゾ二世はフィリピンに残った。戦後、敗戦敵国民の家族であるこの日系人が受けた制裁と迫害の過酷さは、想像に難くない。日系人の歴史を知ることは、日本の近代史を知ることでもある。戦後70年以上経った今、世界各地に残る日系人の歴史から学ぶものの重要さを改めて噛みしめている。