この間 友人から「ひまわり会も昭和一桁の人が少なくなったね」と言われた。
私の子供の頃の思い出は 国民服やもんぺ姿の人が行き来し「欲しがりません、勝つまでは」の張り紙が町中に貼られていた風景が目に浮かぶ。世の中が全て灰色で夜は真っ暗、炸裂する高射砲弾の光や焼夷弾の燃え上がる炎さえも綺麗だなと感じた。
私は 小学校6年の間に転々と5つの小学校に通った。小学校2年の時 戦争が始まり小学生の電車通学は禁止となり 隣町の小学校に転校したのが私の流転の始まりだった。同じ東京都内でも 地区によって子供同士で使う言葉もかなり違い辛い思いをした。今で言うイジメだろう。 小学校3年の時 静岡のお寺へ学童集団疎開させられた。空襲が激しくなると次の世代を担う子供を戦火から守ろうという国策で 大都会に住んでいる10歳以上の学童を田舎に移住させた。田舎に頼る親戚が無い児童は 学校単位の集団で地方のお寺や神社に送られた。東京だけでも20万人の子供が集団疎開で送り出された。衣服などの身の回りのものは親が揃え、その上一人当たり月10円ずつ払わされた。当時の大学卒の初任給が90円だったそうだから、かなりの負担額だ。こんな国力で戦争に勝てるわけがない。親元を離れて大人は先生と世話係りの人だけ。でも あまり寂しいとは思わなかったのは二つ上の兄が一緒だったからだろう。 境内に流れる富士の雪溶けの水は一年中とても冷たく 朝の洗顔や歯磨きは指が切れるように痛かった。あの冷たい水で誰が子ども達の洗濯をしてくれたのだろうか? お寺の本堂や廊下を走り回りチャンバラをしてお坊さんに叱られたっけ。
その後 東京の空襲で焼け出された母が 馬車に乗って村まで逃げて来た。私と兄はお寺をでて村の小学校に転校、親子三人で村の農家の牛小屋の上の部屋で暮らし始めた。お手洗いは牛と共用なので 夜中に下に降りて 牛小屋の大きな肥溜めに落ちるのが怖くて 二階の窓からおしっこをしたものだ。下を通る人にはご免なさい。農家の庭には鶏が離し飼いされていて 可愛いヒヨコがピイーピイーと遊んでいた。糸の先にトウモロコシを結びつけ 庭に仕掛けておくと時々ヒヨコが釣れた。ヒヨコはちゃんと母鶏に帰してあげた。学校の体操の時間は麦畑の苗踏みだったり、宿題がわらじ作りだったり、とにかく兄と二人でいたずらばかりしてあまり勉強した覚えはない。元気で丈夫だけが取り柄の私を 大家さんが息子の嫁に欲しいと言ったそうだ。
戦争が終わると一家揃って千葉に移り住み 又転校、ここで小学6年終えた。借りた家は市川の競馬場の真ん前にあり 競走馬が綺麗なブランケットを着込んでカパカパと歩いているのを見て、人間様よりずーとオシャレだなと羨ましかった。 競馬場の周りには色々な人が住んでいたらしい。近所の友達と喧嘩したら、その晩半纏もも引き姿のおっかない顔付きのおじさんが現れ、玄関先に膝まずき『お控えなさって』と挨拶したのにびっくり。喧嘩するにも相手に気をつけなさいと母から叱られた。 おじさん 結構カッコウ良かったけど。
オテンバは幾つになっても治らない。