秋の到来を感じる季節です。
皆様お元気でお過ごしですか。

ひまわり会の大和コロニーのバス旅行は、20世紀初頭の日本人開拓者の歴史をたどる素晴らしい旅でした。同行した1958年生まれの大和コロニー出身のダン中島さんに、大和コロニーでの日本の伝統は何でしたかと聞いたところ、

「盆おどりと餅つき、そして外で入った大きなドラム缶の風呂かな。」と言っていました。新一世と呼ばれる皆さんの生活には、どんな日本の伝統や慣習がありますか。

ダンさんのお祖父さんは、アメリカで歯医者になるために来たそうですが、後に季節労働者になって、大和コロニーで大きく農業を経営していたおくえさん宅に住み込むようになりました。その後、お祖父さんに日本で女学校を出た女性が嫁いできました。日本で高等教育を受けた女性が、アメリカに夢を抱いて来たのです。あたり一面砂だらけの荒れ地で、文化的なものが一切無い村の住み込み労働者と結婚する決意はどのようなものだっただろうとダンさんは、回顧していました。ダンさんは、お祖母さんには会えませんでしたが、ご自分の娘が生まれた時、お祖母さんを尊敬して「あや」と名前をつけました。

1913年、カリフォルニア州には、移民土地法(Alien Land Law)が施行されました。これは、日本人農業従事者を主な対象として発令された土地所有禁止令でした。これに対して、大和コロニーでは、農場と住居を会社として登録することに成功したのです。さらには、CO-OPを設立して、会社を団結させました。1942年、太平洋戦争の勃発に伴い、西海岸に住んでいた日系人は、強制収容されました。第二次大戦後、多くの日系人は、強制収容所から帰る場所を失いましたが、大和コロニーの農民達は、会社登録とCO-OPの設立があったので、帰ることができました。そこでは、日本人入植者の素晴らしい知恵が活かされていました。

ダンさんのお父さんのトム中島さんは、「収容所から帰って来て住み始めた頃には、日系人の家々に無差別の銃撃があり、住人は震えた。」と言っていました。警察は自分達で犯人を捕まえればいいーと相手にしてくれなかったそうです。日系三世のダンさんは高校を終了するまで大和コロニーに住んでいました。人種差別を経験したかという質問に、「そのような経験はなかった。」ときっぱり言ったのには、驚きました。1950年半ばから活発になったアメリカ公民権運動は、早い速度でMercedの田舎まで浸透していったのです。このように、今回のバス旅行では、アメリカの歴史を垣間みる機会が多くありました。

サンフランシスコ大学のFilm Study 学科にこの秋入学した学生が、一生懸命ビデオやカメラで映像を捉えていました。来年にそれを皆さんと一緒に視聴できることを楽しみにしています。2016年の新年会で元気にお会いしましょう。

ひまわり会会長
剣持順子