角の八百屋さんの道端にくたびれた野菜の切れ端と一緒に死んだネズミが居た。小学校に行く途中だった。通りには都電が走っていて、友達がぶつかって怪我をしたりした。東京オリンピックの頃だったかと思う、都電が消え、いつの間にかバスになった。泥道が舗装され、道は幅を広げて大きくなったり、道がなかったところに道が出来ていった。

そして、しばらくすると、近くの家が減り、首都高速もできていた。八百屋さんの土地はビルになった。又、しばらくすると、小さい建物集落が消えて、一つの大きなビルになっていた。子供の頃の東京・六本木や青山は静かだった。杉並・品川近辺は舗装されていない泥道がまだあった。品川のソニーのビルの上壁部には、誰が見るのか判らないが、何故か映画が映し出されたていた。見えるのは夜だけだったと思う。暑いという夏の日は30Cだった。それ以上の温度は稀だった。

祖母は普段は着物で、夏になると短い間だけ、洋服を着た。祖父母の家のお風呂は桧木作りで、いい匂いがした。家の庭には蛙が居て、捕まえて学校に持って行ったりした。家には井戸があり、井戸の水は水道水より冷たく、周りには茗荷が生えていた。世田谷の叔母の家には五右衛門風呂があった。木の板を踏んで、風呂桶の中に入る。一番下は鉄板だから、直に触ると熱いらしい。そこでは、ご飯を薪(お釜)で炊いていて、薪割りもしていた。お焦げごはんが美味しかった。

子供は家にいると煩いと思われるらしく、大人に「外で遊んできなさい」といわれ、鬼ごっこや、かくれんぼをしたり、良く大きなこんもりした木の下に入り込んで、おうちごっこをして、石ころや木の実をとっては、ままごとの道具にしたりした。外・自然が、遊び道具だった。

バス停・路線は今でも同じで、便利と思う。走り回った、根津美術館(の庭)、表参道、凧揚げやかくれんぼをした青山墓地も近くを通ると、昔が蘇る。同じところに未だ住んでいる友達も居る。昔、何もなかった大通りは、当然のように商売・人々で賑っている。

河野さき